8月11日香椎宮でのヴィジョンと竹下氏の解説
- 2009/08/25
- 00:13
前の記事にも書きましたが、8月10日から実家のある福岡に帰省していました。
帰省の主な目的は、去年亡くなった夫の父の初盆の手伝いで、10日間の帰省のうち6日間は
夫の実家の方にいましたが、自分の実家にいられる間は、以前からの習慣に従って、
近くの(2.5㌔の距離)香椎宮に毎朝、参拝していました。
伝承によると、香椎宮は、西暦200年、熊襲(くまそ)征伐の途中で、
第14代・仲哀天皇(ちゅうあいてんのう、日本武尊と両道入姫命の御子)が筑紫の
橿日宮(かしひのみや)で急逝したため、后である神功皇后が、その地に祠を建て天皇の神霊を
祀ったのが起源とされます。
日本書紀などによれば、神功皇后は、夫の仲哀天皇の急死後、住吉大神の神託により、
お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま海を渡って朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻め、
新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したといわれています
(三韓征伐)。
第14代・仲哀天皇(ちゅうあいてんのう、日本武尊と両道入姫命の御子)が筑紫の
橿日宮(かしひのみや)で急逝したため、后である神功皇后が、その地に祠を建て天皇の神霊を
祀ったのが起源とされます。
日本書紀などによれば、神功皇后は、夫の仲哀天皇の急死後、住吉大神の神託により、
お腹に子供(のちの応神天皇)を妊娠したまま海を渡って朝鮮半島に出兵して新羅の国を攻め、
新羅は戦わずして降服して朝貢を誓い、高句麗・百済も朝貢を約したといわれています
(三韓征伐)。
帰省の間、香椎宮で見たヴィジョンのイラストを、竹下雅敏氏の解説と共にご紹介させていただきます。
イラストの上部にある、灰色の背景の文字は、ヴィジョンを見たときの私の感想、
イラストの下部にある、肌色の背景の文字は、竹下雅敏氏による解説です。
イラストの下部にある、肌色の背景の文字は、竹下雅敏氏による解説です。
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①参拝している時に、若くとても美しい女神様が拝殿の奥にある弊殿に現われました。
朱塗りの弊殿(勅使参拝時に御幣物を捧げる場所)の床の上に立ってこちらをまっすぐに
ご覧になっていらっしゃいました。
全身のお姿が見えましたが、胸から上だけを描きました。
手の込んだ特徴のある髪型に結われていました。
朱塗りの弊殿(勅使参拝時に御幣物を捧げる場所)の床の上に立ってこちらをまっすぐに
ご覧になっていらっしゃいました。
全身のお姿が見えましたが、胸から上だけを描きました。
手の込んだ特徴のある髪型に結われていました。
美女の誉れ高い衣通姫(ソトオリヒメ)様です。
その美しさが衣を通して現れるようだという意味で、このお名前で呼ばれているとのことです。
第19代・允恭天皇(インギョウテンノウ、412-453在位)の第二皇女・
軽大娘皇女(カルノオオイラツメノミコ)様のことです。
衣通姫伝説によれば、彼女は第一皇子・木梨軽皇子(キナシノカルノミコ)と兄妹の関係で
ありながら結婚し、皇位をめぐる争いの罪を問われて伊予に流された兄を追い、
再会の後に共に自害するという物語が伝わっています。
香椎宮境内に巻尾神社という摂社があります。ここで写真を撮ると、いつもまぶしいくらいの光が写ります。
2009/8/11 8:58撮影
②ここを参拝するととても気持ちがいいので、香椎宮に行くと必ず訪れるようにしています。
この日も参拝していると見えた男神様。去年参拝したときも、やはり白い髪と髭の年配の男性が見えま
した。このあと、18日と20日に来たときも、やはり同じ方を見ました。
この日も参拝していると見えた男神様。去年参拝したときも、やはり白い髪と髭の年配の男性が見えま
した。このあと、18日と20日に来たときも、やはり同じ方を見ました。
この方は、木梨軽皇子(キナシノカルノミコ)の腹心であった、大前小前宿禰(オオマエコマエノスクネ)様です。
③その日の深夜、実家の部屋でヴィジョンのイラストを清書している時、突然目の前に
一人の若い男性の姿が見えました。最初はひざまずいていらっしゃいましたが、
④やがて顔をあげられて、きりっとした瞳でこちらをまっすぐに見つめていらっしゃいました。
目鼻立ちの整った彫が深くて、色が白い、とても綺麗な若い男神様でした。
③一人の若い男性の姿が見えました。最初はひざまずいていらっしゃいましたが、
④やがて顔をあげられて、きりっとした瞳でこちらをまっすぐに見つめていらっしゃいました。
目鼻立ちの整った彫が深くて、色が白い、とても綺麗な若い男神様でした。
④
木梨軽皇子(キナシノカルノミコ)様です。伝説でも大変な美男子であったそうです。*************************************************************************************
衣通姫(ソトオリヒメ)様と彼は、現在天界で夫婦のようです。
現在の香椎宮の裏に森があり、そこに古宮の跡があります。
現在、そこを訪れる人はあまり見かけませんが、歴史を感じさせる雰囲気のある森です。
仲哀天皇が新羅遠征のために本陣を置かれた古宮跡、
「神功皇后は、仲哀天皇の御遺業を完遂せんとして天皇の急死を秘して、
その棺を本陣の椎の木にかけ、その御前で作戦会議を開いたと言われています。
その時、この御棺より薫香がしたことにより、以来この地を香椎と呼ぶようになったそうです。」
(現地案内板の解説による)
神功皇后が三韓征伐から帰国した際、三種の宝を埋め、「永遠に本朝を鎮護すべし」と
誓いを立てて鎧の袖の杉枝をその上に挿したものが現在の大木となったとされる。
Wikipedia香椎宮による
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余談(私と香椎宮)
福岡市東区香椎にある実家には私が20歳の頃に家族で引っ越してきましたが、
その時からなぜかとても惹かれる神社で、暇さえあれば訪れ、良い歳をしながらこの境内の森で
遊んだり、周囲の遺跡を巡ったりして親しんできました。
そういうわけで私と交際した男性は、(数は少ないのですが・・)皆、ここに連れて来られ、
最後に(神様の目に叶った!?)夫とこの神社で結婚式を挙げたわけです。
3人の子供たちも、里帰り出産をし、臨月の一か月間は毎朝、香椎宮に詣で、神功皇后様に安産祈願して
無事に出産することができました。長女はご神木「綾杉」と香椎宮から名前をいただき、
綾香と名づけました。
ここに引っ越してくる前に住んでいた場所も、神功皇后が応神天皇を御出産された場所、
(現在の宇美八幡宮や、
応神天皇のお紙目(おしめ)を替えらえた現在の志免町にほど近い場所に住んでいました。
神功皇后や応神天皇の伝承が色濃く残る地に生まれ育った関係で、
二柱に対する敬愛の念は自然と深まり、特に神功皇后様には、同じ女性として、
また妻であり母であるお手本として、その毅然とした強い生き方に心から惹かれてきました。
今回は、神功皇后様のヴィジョンは出てきませんが、私の大好きな香椎宮を
皆様にご紹介することができて心から嬉しく思います。
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イラストや文の無断転載(HP、ブログなど、また書籍等の印刷物を含む)は一切お断りいたします
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